久米島に呼ばれた理由  原因編

花屋

2008年09月10日 19:52



遅くなりましたが久米島のお話です。
前回、前々回の記事は、
久米島に向かいながらの車中や、船上で書き込みしていましたので、
あまり詳しく書けませでした。


久米島での初日、
実はどこの拝所にも行ってません。
サイプレスホテルで仕事がある友人を下ろした後、
一人で御嶽巡りしようかな?と勇んでましたが
前日からの疲れと睡眠不足、そしてナビ付きの車なのに
道や目的ポイントを設定できない僕。
そんな自分にだんだんやる気を無くしてしまって、
結局一人、宿でテレビを観てました。
久米島も三度目というのに迷子になる花屋(笑)

友人の所用が終わるまで待ってから、
久しぶりに久米島の友人達と再会してから、夕食をご一緒させてもらい
そのまま飲み会へと流れ、zu-zuさんの工房へ場所を移動しました。
みなさんとの語らいはとても楽しく、時が経つのも忘れて僕は飲みすぎてしまいましたが
次の日は珍しく早起きが出来たので(笑)今回の目的場所『宇江城城跡』まで
zu-zuさんに連れて行ってもらいました。



ウエグスクは山の頂上にあって、展望台のような場所になっています。
360度視界をさえぎるものがないので素晴らしい眺望です。
ウエグスクに登るためには山の中腹にある観音堂を通ることになります。

ウエグスクに登る前に中の千手観音さまに挨拶をするべく、
敷地内に入ってみると、なんと一本の木が倒れてすでに白化していました。
何事だろうとその木に触れてみた… が解りません。
いつもならどんなに弱っていても、
木のほうからエネルギーを流してくれてその中にある情報がわかったりするんですが…。
(それが木(自然)の無償の愛)

ただ完全に死んでいるわけではなくて
枝先が天に向かって真っ直ぐに伸び始めていたので、僕の方から少しだけ氣を流しました。

僕はまだまだ未熟です。
集中してリラックスする。或いはリラックスして集中する。
本当はどんなときでも、自分の中心に入っていける精神状態を
作らなければいけないのにそれがうまく出来なかったり…。
でもその出来ない理由はわかっています。それが僕の今の学びです。
観音堂ではメッセージを聞くことができないまま、
ウエグスクへ向かいました。

残暑というよりまだまだ夏真っ盛りと言う感じで
日差しが強かったんですが心地良い風も同時に吹いてました。



頂上にたどり着くと…  やっぱりありました。
石囲いの中にあるたくさんのお賽銭です。
前回来たときは底が見えたのに今は見えません。確実に増えています。
僕に与えられたミッションは、ウエグスクの地下に溜まった念の浄化ですが、
その原因の一つが、このたくさんの願掛けされたお賽銭にあるかも知れません。

一体、何をしていいのやら、わからぬままに
積み上げられた石、石の枠組み、そしてその中のお賽銭に
水をかけていました。一応浄化のためです。
これもその場しのぎにしかなりませんが…。

   ウエグスクは天に感謝する場であり、願いの場(願掛け)ではありません。
   祈りは感謝であり願いとは欲求です。
   この二つは似て非なるもの。混同してはいけません。
   どうしても願掛けしたいのなら、お賽銭箱のある場所でお願いします。
   僕は他(自分以外)に自分のことをどうにかしてもらおうなんて思いません…。
   今の僕の状況アナタの状況がすでに『与えられているもの』だからです。
   もちろんギフトも試練も含めてです。出来事の良し悪し関係なく
   必要なものはすでに与えられていることに気付いてください。

   きれいごとだけでは片付けられないので、たまには厳しいことも言いますが、
   すべてのものには陰陽があり、この世界にも「オモテ」と「ウラ」があります。
   目に見えるすべての現象をこの世界のみで語れるとは思わないでください。
   すべてのことを人の頭の中だけで理解出来ると思わないで下さい。

   人の心から傲慢さが消え、謙遜さがあらわれてはじめて
    『物事を悟る』ことが出来るようになると思います。
   何を持ってして『悟り』か?ということも
   人それぞれだと思いますが、悟りに執着しすぎるのも良いとは思えません。
   すべてはバランスと仕組みだからです。
   何かにしがみついていると、常に手がふさがってしまうものです。
   悟ったらそれを気持ちよく手放して、新しい知識をいつでも手に入れられるようにすればいいのです。
   手放したからといってもそれがなくなるわけではありません。
   出来事は忘れてしまっても心・魂に蓄積されていくのです。
   もしかしたら霊性とは、無意識のことを指しているのかも知れませんね。


清らかな高い思考の念は上昇し高次元に向かいます。感謝とか祈りの念ですね。
願いの質にもよりますが、暗く重い念は下へ下へと下降し低次元へ堕ちていきます。

前に来たときは解りませんでしたが、
ウエグスクの山全体が大きな入れ物のような存在になっていて
そこに僕たち人間が知らずに、欲求の念をどんどん溜め込んでいったのでしょう。
もしかしたら僕も前回ここで願ったかも知れません。

  僕が久米島に行く前の夜に観たビジョンには
  元々からここにあったピンクのエネルギーと、
  どす黒いエネルギーが、水と油のように混ざり合うことなく
  ゆるいミキサーにかけられているようにうごめいていました。

僕の他にもここで願った人がいるかも知れませんが、心配しなくて大丈夫です。
これは誰も知らなかったことから起きてしまったことです。
誰が悪いということではありません。責任のなすり付けもいけません。
これを初めに作った人も、人の為誰かの為に“良かれと思って作った”はずなのです。

それでも今までは何とかその均衡を保っていました。
その均衡を保っていたのは山の自然たち≪木々の存在≫です。
  注)すべての物には霊性が宿っています。
木は二酸化炭素を吸収して酸素を出しています。
まるで≪フィルター≫ですね。これは見える世界のオモテの答え。
見えない世界のウラの答えも、実は≪フィルター≫なんです。

人が生きるためにはどうしても“念”を作り出してしまいます。
念の質に関係なくどちらも発生してしまいます。
木はその負の念を少しずつ吸い上げて身の内で浄化し、
きれいにしてから吐き出しているのです。

その中でも観音堂内にある木々たちは、大きな役割を担っていたハズ…。
敷地内のその木が寿命を終える前に倒れてしまっていた…。
なぜ倒れたか?という目に見える理由は解りませんが、
これで「天井が落ちている」という受け取ったメッセージと繋がりました。

目に見える木の役割の一つが天井を支える柱です。
観音堂の天を支える柱の一つが倒れて、
中の千手観音さまは、その頭上にある城跡から
溜まりまくった人の念を頭から被ったのです。

“天上人が低い波動を受けて次元を落としている”

天井とは天上のこと。
「天上(神)が堕ちていた」とはこのことだったんです。
普通に考えても神の頭上で願い事をしてはいけませんよね。

宇江城城跡がある山全体は、その昔聖域だったんだと思います。
観音堂がその中腹にあるのは、そこが神の山へ入る時の挨拶の場所だった。
でもその話と観音堂が建っていることとは、また別の意味があるかも知れません…。

 最初の頃は仏像は無かったのかも知れないし、
 すべてを繋げてしまうのは安易過ぎるからです。

“神御無礼”になっているから呼ばれたんだと思います。
(僕だけが呼ばれたわけではないです。千手観音さまは僕の干支)



去年の夏の終わりに、
レイキメンバーみんなで久米島に行ったことがありました。
宇江城からの帰りに初めてみんなで観音堂に立ち寄りましたが、
その時にメンバーそれぞれの感じ方が変わっていたことを思い出したのです。

僕が観音堂で感じた感覚は…、
見た目に怖さはありましたが、中に入ってみると案外そうでもなくて。。。
慣れてくると安心感もありましたが、他の多数の方は「いい感じがしない」とか
敷地内に入ってこないメンバーさんもいました。

 在る人はその奥に負のエネルギーを敏感に感じて…
 また在る人は本来のきれいなエネルギーを感じて…

その頃からすでにエネルギーの変容(エネルギーの裏返り)が起こっていたんですね。
今思えばそれぞれが正解だったのでしょう…。















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