こんちは~
ご無沙汰してました、花屋です。
やっとここに帰ってくることができました。
去年も一昨年も、その前もそうでしたが
去った六月という時期は、僕のバイオリズムが最も停滞する月なんです。
また、
今年もさまざまな出来事が重なって、
例年通り(笑)僕の中で葛藤を繰り返していました。
そのあいだ心の中はどんよりと曇ってましたよ(笑)
この心の嵐に根負けして開き直り、感情に任せて行動してしまうと、
さらに自分自身を傷つけてしまうことも、経験して分かっていたので
荒れる心を必死に“自分は自分だ!”と言い聞かせ
嵐が去るのをじっと待ってました。
こんな時はネガティブ感情が心に去来してます。
最初は他人の言動や行動を否定することに始まり、
最終的には自分自身の存在とかを全否定します(笑)必ず。
書いていて思ったのは…
僕にとっての六月は、もしかしたら心の決済とか決算の時期なのかも知れない。
ここで一年を振り返ってみて
僕は何をしてきたのか
何を残せたのか
このままでいいのか…
もし 成長出来なかったと感じていたり
何も残せなかったと考えるなら
僕がそこに生きている意味は
ここに存在する意味は…
今わかってるだけでも年に一回は(人によって違うけど)
僕の本質である魂が、思考する物質である人間としての自分に、
厳しく訴えかける。
目標の再確認や心の軌道修正を突き付けている、と僕は考えました。
魂:『すべてを与えてやってんのに何してんだよっ!』
(すべて=命・能力・特徴・環境・出来事等を含め)
ホントに僕はしょっちゅう怒られてますよ。
出来事で怒られ、夢でも怒られて…。
それも基本的なことで怒られてるので恥ずかしくて書けません(ヘンな意味じゃないですよ)
その魂の想いが、ネガティブ花屋に変身(笑)してるときはこう聞こえてきます。
魂:『じゃー、お前がそこにいる意味(生きてる意味)はあんのかっ!?おぉ!』と…。
(怖ぇー!^^;)
言ってみれば向こうは“本家”僕はしがない“分家”ですから。
分身というよりは分心かな?(うまいっ!笑)
でもやっぱり本家である魂はやさしいよ。
分家である“むぬわからんぬー(無知)”の僕に、色々アドバイスしてくれるんだから。
物事を謙虚に受け止めてこそ、アドバイスも身のうちに届く。
学ぶ姿勢とは謙虚さの表れです。
「だったら本家である魂がここに来て、修行したらいいじゃん!」と、
思うかも知れないけど学びの答えや、あらゆる仕組みを知っている魂では、
学びにならないと思う。
○あらゆることには二面性がある
一年のサイクルや干支のサイクルは《円》の動き。
季節が巡り、また同じ季節を迎えた時点で一周したことになります。
ここで大切なことは、
僕たちは円を描きながら力をため、
ここぞっ!という時に足を蹴り上げ、過去の自分を乗り越え
新しいステージへと舞い上がる。
円の動きが螺旋になっていればいいんです。
螺旋とは《次元上昇》の図。
上から見れば円の動き、横から見れば螺旋の動き。
一見すると同じように思われがちですがまったく違います。
円とはサイクルであり、基本であり、システムの比喩。
マニュアルを繰り返してるだけでは何の学びもありません。
人は常に思考や行動を起こすことが出来ます。
それが仕事での休憩中だったとしても、仲間との楽しいひとときであっても、
その中から学びを見出すことが出来ます。
寝ている時でさえ何かを学んでいると思います。
出来事には良い出来事や悪い出来事がありますが、
どのように感じるかは人それぞれ。
《雨が降れば傘屋が喜ぶ》ということは、
僕にとっての大問題は、他人にとっては小問題だったりする。逆もまた然り(発想の転換)
他人を知れば、自分を知ることが出来る(違いの質を知る)
傷つくことを恐れたり、執着の度が過ぎると、
そのこだわってる部分と一緒に取り残されてしまうけど、
心というものはよくできています。
人はショックを受けると内側にこもってしまうけど、
でもそのおかげで、出来事の本質の学びに気付くこともある。
魂としての自分自身が、その分身である思考する肉体の自分(表層の意識)に、
出来事をもって学ばそうとします。
※この世は陰と陽の二面性で成り立ち、こだわりというモノにも二面性があります。
「常に謙虚でいたい」「家族を大事にしたい」と思う強い心。それもこだわりの一つ。
こだわることで人が生きる活力にもなったりします。
ちなみに「常に謙虚でいたい」とは僕のこだわりの一つだけど、
こだわることすべてが悪いことではありません。
環境が出来事を生み、出来事がまた新しい環境を創る。
それも一つのサイクルです。
また、
環境(周り)は自分の内面を映し出した鏡だと言われていますね。
自身の波動のレベルが環境にも反映している。
と、、これは僕の考えですが…(汗)
心は本当に不思議なもの。
僕の心は平安を求めつつも、また違う部分では変化を求めています。
鏡である環境を変えたいと願うなら、まず自分を変える。
自分のフリや行ないが鏡に映るから、結局環境を変えるには自分が変わるしかない。
自分が変わると環境も変わってくる。
ここまでは本や講演会で言われていることで、僕もそれを実践し納得してるけど
ここからはさらに出来事の奥の話。
僕は以前、(なぜ、出来事は起き続けるんだろう?)と考えて、
出来事に意識を合わせて、奥深く潜ったときがありました。
そしたらいきなりその場所に着きました。
僕の場合、ビジョンが映画の幕のようにスクリーンに映し出される場合と
実際にその場所にいく場合があるけど、今回は実際に行ってきました。笑(ヘンな表現だな)
その空間にいきなりたどり着いて周りを見渡すと、
僕の下方にエネルギーのようなものが流れていました。
色はオレンジかピンクで、液体と固体の中間のような感じで川のように流れていました。
僕は(これってなんだろう?)と思ってみていると、
その下流が現世に流れ込んでいました。
違う世界から、この世の出来事に流入されてくる見えないエネルギー。
僕はそれが何かをずっと考えていたけど、
今の時点ではそれが《変化を促すエネルギー》か、
もしくは変化のエネルギーそのものだと思いました。
良い出来事にも悪い出来事にも共通しているのが変化。
(このままでいいのか?オレ!笑)という思いも、
その変化のエネルギーが、人体にも流れ込んで来ているんじゃないか?と思いました。
それで人は変わりたいと願うのかなぁと思ってます。
学びも、試練も、成長も、個性を磨くことも《変化》という言葉が変化したもので
それが時と場合によって言い方が異なるだけ。と僕は思うのです。
また、すべて変化と言っているのではなくて、
変化の中に在っても「変化してはならないもの」もあります。
ルールの一つでもある二面性。
悪と言われるものにも二面性があることに気付く。
人は経験を通して理解するし、今現在、悪に身を染めているとしても
悪に身を染めなければ分からないことも中にはあります。
悪という経験の中から、本当の真実、まことの心に気付くこともある。
人が言う正しさも、なにをもって“正しい”と言ってるのか?
だからといって、悪に染まりなさいと言ってるわけではありません。
前世で悪を経験している者、来世で経験する者もいるでしょうから。
ぼくにとってのブログは、点と点を結ぶまとめの作業の一つ。。
それぞれの学びを繋げていき、完成形を目指すけど、
ときには、その先にあるものを見ることが出来ることもある。
色んな物事から二面性を見つけてしまうと、ブログが書きにくくなります(笑)
「そしたら何も断言したり言い切れね~じゃん!」って。笑
でも実際、そうそう言い切れたり、断言したり出来ることって少ないと思います。
断言できる言葉や想いが「真理」でしょうね。