自己との対話

花屋

2008年04月24日 23:06

少しずつではあるけれど
自分自身の事が分かってきています。

誰の目から見ても、
僕はこの場所から動いてませんが、
でも一歩ずつ、前に進んでいると肌で感じています。

人は… 生かされながら、
(自立して)生き抜いていくんですね。

本当にありがたくて、ありがたくて
すべてに感謝してます。




僕はいつも人の心について、
生き方について、精神世界について、
書いています。

僕は心の仕組みを、人よりは少し知っているからでしょう。


「力はすでに与えてある」と言われても
その事に気付けなかった。
心の知識も与えられたモノです。

下は僕がいつもやってる自分との対話です。




お前はなんでいつもいつも、
見えない世界の事を、こんなにも書いているんだ?

A
自分でもわからんさ!でも書いてないと
何かの禁断症状のようにイライラするんだよ!(怒)

Q
お前が書いてる内容は誰かに聞いたのか?

A
聞く聞かないとかじゃない。
ちょっとおこがましい言い方だけど、
「備わってる」って感覚なんだよ。心についての事だけはね。

Q
なんで備わってるんだよ?

A
多分…、生まれる前にそういう契約をしたんだと思う。
人は生まれる前にある程度
自分で設定を決めてから生まれると言うのは、あれは本当。
それだけは確信があるんだ!
年代や環境、親もね。

自分が一番成長できる、“Bestな環境”を自分で選んでいるんだよ。
人間の過去から未来まで、年代をすべて見通しているから出来るんだ。
人はすべてスピリチュアルな存在だから。

おおまかな歴史時間が決まってる中で、
どれだけ自分の意識を変えられるかだと思う。

僕が以前、「マルチ・エンディング・システム」って言ったのは、
人生は逆から見た、トーナメントに似ているから。

でもちょっと悲しいことに、これも「枠の中の自由」なんだね。
「選択の中の自由」って言葉はつじつまが合わないよね。

僕たちが人として括られている限り、
本当の自由はこの世界にはないよ。

仕事は性格によって適材適所があるし、天性のモノもある。
不労所得を仕事と含めて考えてみても、
「仕事をやらないという選択肢」は枠の中にはない。
「選ばない」という自由がないんだね。

でも心だけは宇宙のように自由自在で無限。
この制限された地球という枠内に、「心の成長する要素」があるんだ。

Q
人はどう生きるべきか?

A
人がどう思おうと関係ないよ。
自分が生きたいように活きる。
たくさんある選択肢の中から、自分が納得できる生き方をすればOK。

何をやりたいのか?自分でも分からない人は
「今」の自分はどんな事に携わってるか考えてみて下さい。
今のままで納得していればそれでOKです。

不満があれば改善していけばいいし、
新しい道に進みたいなら、明確な目標を立てて進めばいいんですよ。

「やる気」を生むのも自分です。
自分の機嫌は自分でとってくださいね。

前に進む事を怖がるより、
何もせずに同じ人生を繰り返す方が、僕はよっぽど怖いと思います。

ほとんどの人が同じ人生を繰り返してるし、
僕もデジャヴをよく見るから、何度も繰り返してるのがわかるよ~(笑)




 昔話の物語…
 僕は生まれる前の世界から人を観ていた。
 人が辛そうに生きていく姿を、目の当たりにして
 苦しくて切なくて泣けてきて、もうどうしようもなくなって。
 「ここで見守るより、そばにいて支えてあげられたらどんなにいいか…」
 そんな衝動にかられて僕は生まれた。
 その時に感じた胸の痛みを僕は覚えています。
 今は何も出来ない自分に歯がゆくて、イライラしたりもするけど、
 その胸の痛みが、僕をブログに駆り立てる本当の理由かも知れません。
 



人を支えるため、導くために能力を持ったまま生まれる。
本来は地味で目立たない、縁の下の力持ち的役割。

能力を持った人すべてが霊能者になるわけでもなく、
やっぱり枠の中の選択によるものだと思う。
その能力で自分の人生を、
より良く生きる為に使うのも一つの方法だし。


それでも例外なく、一切を忘れて生まれてくる。
そのために導く者を導く為の知らせが来る。

僕にも選択の道はあった。多分…。

「こんな力があるがお前はどうするか?」

と言われたけど…、
(そこで断っていたらどうなっていただろう?)とかね。


自分の内側から出てきた言葉を、すべて鵜呑みにはしない。
一旦、自分の中でそれを置いておく。
その内容に真実性があれば、
外から同じ情報が出てきたりする事がある。
僕はシンクロで正確性を測ることもある。
(※シンクロに間違いはないと言ってるわけじゃないです)

Q
なぜ人は記憶を失くして生まれてくるのか?

A
今までも、そしてこれからも僕の想像に過ぎないけど、
例えばすべての記憶を持ったまま生まれると…。

自分がやりたい事、出来る範囲内の選択の幅を知りつくし、
いつどこで変化を迎えたり、死ぬところも分かっていたとする。

そうなった時、
人は思い悩んだり、苦しんだり、頑張ったり
また、幸せを感じられると思うか?
僕はそうは思わないよ。

すべてのタイミングを知っていたら、
少なくとも僕は、そのタイミングの時までラクして過ごすでしょう。
どの方向で努力したら、一番いいのか知ってるから
無駄な努力や行動もしない。

例え悪い事が起こっても、起きるべき事だと知ってるから
自分の内面を見つめるなんて事はしない。
すべては決められているからサプライズがない。
感動なんてあるわけない。


知らない方が楽しくて幸せでサプライズに満ちているんだね。




○「死」について

僕が思う「死」について書いてみた。

「生きとし生けるものはみな平等」だと言うけれど、
平等であるはずの動物や植物の死を受け入れて僕らは食べている。

動物世界の食物連鎖は
サイクルとして成り立ってるかも知れないけど、
生き物の頂点に君臨する人間はこのサイクルには属してないと思う。
人間は将来の為に、大量に動物を殺して備蓄しているし、
例え人が死んで灰になっても、肥料どころか墓の中。

まさに「生きてるだけでごめんなさい」です(笑)
昔はトラックのボディーによく書かれてましたね。


僕の実家は畜産業をしています。
実家を非難するわけじゃないけど、畜産や養殖って
“殺す為に育てている”からね。

植物も動物も人間も、生命の「死」の上に成り立っている。
命を繋ぐ為には、やむを得ない「死」が存在する事だけは確か。

心の成長という“大義名分”の為なら、それもまたやむなしなのか…。

「死」に報いるには、今を真剣に生きる事…なのかも知れない。
それで命を引き継いでいけたらいいなぁ。











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