人は「思い」で生きる生き物

花屋

2008年04月07日 08:30

ここ最近はブログを放り出して好きなことをしてました。
癒しを求めて出かけてみたり、やりたいことやったり…。
その日その時の気分で動いてました。

感覚で動いていたおかげなのか(?)わからないけど、
やっと本来の自分に戻って来たように思います。


長い間ブログを放置してたので、つい最近まで僕の心の中では
「ブログ書きたい病」と「ゆっくりのんびりしたい病」が争っていて
イライラムカムカしてました。
まるでブログ禁煙してる人みたいな。(笑)

でもこのイライラが僕をブログに向かわせる
原動力になっていることを僕は知っていて理解しています。



皆さんも知ってるように(?)僕が書くことはいっつもヘンな話です。
自分でも
(オレって頭がおかしいんじゃないのか?)
って常に頭によぎります(爆)
そんな時は自分に落胆して自分が嫌いになります。今でもです。
                         (4月6日調べ)笑



だけど…

「どんな自分でも認めてあげる事」で前に進めることがわかったんです。
※これは書いている今わかりました

だから僕は一旦、まるごと自分を信じてその後で
少しずつ訂正していこうと思ってます。



まずは二つ訂正させてください。

「人を否定してはいけない」


僕は過去記事の中で、二人のユタさんを否定してしまいました。
数年、数十年も前の事なのに…。

原因は僕の「思い」でした。
心が「思い」に捕われてしまって、周りが見えなくなり
怒りに任せてブログの中で暴走していました。


そしてもう一つはその「怒り」です。
「怒り」という感情に僕が固執してしまった事です。

この感情の問題というのは、すごく繊細で重要です。
どうか間違って解釈されませんように…。


先に言っときますが、
喜怒哀楽の感情はどれもが大事です!
人に備わってるモノの中で、要らないものはありません。

その時々で発生する出来事に、無意識に「思い」をくっ付ける。
(何度も言いますが、起こる出来事に良し悪しはありません。
人が出来事に善悪を付けています)
そうすることで心が癒されたりします。
心は「思い」に支配されています。


何も感じていない状態が「ニュートラル」です。
それが基本の心だと思ってください。
それぞれある「ギア」が喜怒哀楽です。
(オートマ車ではなく、ミッション車です。笑)

ここでも大切な事は二つ。
ずーっと同じ「ギア」のまま進まない事と
ずーっと「ニュートラル」のままいない事です。

偏った感情のまま生きていくと、心に弊害が現れます。
(僕はそれを経験して、心の闇として過去記事にも書いています)

逆に「ニュートラル」のままだと、
道を進む事も出来ず、また車としての意味もなしません。
そうなれば、生きている事の意味も問われてしまいそうです。

1のギアで長時間走らせると、車はすぐに壊れてしまいます。
それぞれの「ギア」には長所も短所もありますが、
喜怒哀楽にも同じ事が言えるからです。



まず怒りの解釈の一つとして、
【身を守る為の種の本能でもある】
と言う側面も持っています。
攻撃されると感じた時には、その相手に怒りを見せることもあります。
人から抑えられれば抑えられるほど、反発心も大きくなります。

その反発心が、どんな環境や人にも「負けてたまるか!」
という反骨精神、高い志をつらぬく強さにもなります。

また、
知らないうちに心に溜っていたネガティブな感情を
外側に放出する為、「怒り」を伴って爆発したりもします。

これは少し特殊なケースかも知れませんが、
そうする事で精神を保っている、
“心がオーバーヒートするのを防いでいる”のです。


なので、その時々に受けた感情はじっくりと味わってください。
嬉しい時も悲しい時も怒っている時も
感じ切ってください。

僕は「怒り」の感情を要らないものだと考えてしまい、
僕の中から除外してしまったんです。
怒りは気持ちを切り替える事で、手放す事が出来ると思ってました。
それが間違いでした。

怒りも出来事を通して感じます。
だけど誰だって本当は怒りたくはないはずですよね。

表面意識は怒りの感情を切り替えたつもり…
でも、外へと発散出来なかった「思い」が
心に溜まって蓄積するのは当然かも知れません。
思いの行き場がないのだから。

「堪忍袋の緒が切れる」とは良く言いえてますね。



気持ちに余裕がある時は怒っている自分をも、
第三者のように客観的に観る事が出来ます。
そんな時、怒っている自分が可笑しくもあります(笑)

いつか根音さんがコメントで言ってました。
ちょっと難しいかも知れませんが、マイナスの感情も感じきってと…。


あくまでも僕の理論ですが、ここまでは分かってもらえたかなぁ。
なるべく分かり易く書いたつもりだけど。




○思いが自分を傷つける

僕のブログはほとんどが心(魂)を題材にして書いています。
霊だって心があって、霊が持つ(抱えている)思いの強さで
存在をアピール出来ているのだと思います。

この沈黙していた数週間の間に“心の仕組み”や“僕自身の事”で
いくつか分かったことがあります。
もちろん僕の考えとして聞いてください。

本当は心(魂)は傷つかない。

心は簡単に感情(思い)に支配されますが、
この感情という思いは曲者です。

感動・怒り・楽しいと言う気持ちさえも、自分で作り出しています。
頭?心?その感情はどこで作っているのか?
今は分かりませんが確実に言える事は、
感情を創造しているのはまぎれもなく「自分自身」です。



映画「マトリックス」を観たことがありますか?
その中で、コンピューターが作り出した現実ではない世界
仮想世界(マトリックス)があります。
実際の人々は眠っていて、マトリックスと言う大きな夢を
みんなで観ている状態です。

すべての人はそこが架空の世界だと知りません。
本当の世界だと思っているので
極端な話、マトリックス内で死ねば本体の身体も死ぬんです。

それは
【心が思いによってそうさせている】んです。

それほどに思いとは強い波動であり、
この世に幽霊が出るのも自分で作り出した
「思い」という感情にしばられているから。
魂の状態になっても強い影響力を持っている。

現実世界では「思い」で死ぬことは無いのかも知れません。
でも自分の考えが、自分という思いを傷つけることはありえると思います。


と言うことは…
人が人生を終えて死ぬ間際の「思い」は特に重要ですね。
執着を断っていかに生き、いかに死ぬか……なのかな。










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